千葉県我孫子市と民藝運動 : 柳宗悦
民藝運動への影響
我孫子市は、民藝思想の形成期において中心的な役割を果たした地であり、柳宗悦をはじめ、白樺派の文学者や芸術家たちが集い、思想や芸術的な交流を深めた場所です。この地での活動が、民藝運動の誕生に影響を与えました。
1914年、柳宗悦は我孫子に移住し、志賀直哉や武者小路実篤などの白樺派の文学者たちと交流を深めました。この地での活動が、後の民藝運動の基盤となりました。
民藝運動とは
民藝運動は、柳宗悦が1920年代に提唱した「民衆的工芸」を意味する運動です。日用品や工芸品にある「用の美(ようのび)」、つまり「日常生活で使われることで初めて生まれる美」を称賛し、無名の職人が作る日用品こそが本来の美を持つという考えを中心としています。
柳宗悦
柳宗悦(やなぎ むねよし、1889年 – 1961年)
柳宗悦は日本の思想家であり、民藝運動の創始者です。彼は「美は生活の中にあるべき」という思想を持ち、日常生活で使われる工芸品の美しさを追求しました。その活動は、日本国内外で民藝(みんげい)運動として広まり、現在も多くの工芸分野に影響を与えています。
ちなみに、名前は「やなぎ そうえつ」とも読まれ、欧文においても「Soetsu」と表記されます。
また、代表作「バタフライスツール」で知られる、インダストリアルデザイナーの柳 宗理(やなぎ そうり)は、宗悦の長男です。
柳宗悦の生涯と活動
白樺派との交流
柳宗悦は、早稲田大学在学中に文芸誌「白樺」の影響を受け、志賀直哉や武者小路実篤らと親交を深めました。この白樺派の自由で人道主義的な思想に共鳴し、やがて我孫子に移住して共に活動します。ここでの交流が民藝運動の発展に重要な影響を与えました。
民藝運動の創始
当時の日本で「無名の職人が作る日用品」にこそ美が宿ると考え、1920年代に「民藝」という概念を打ち立てます。「民藝」という言葉自体、柳が「民衆的工芸」の意味を込めて造語したものです。
彼はその後、工芸品の価値を見直し、普段使いの陶器や木工品、布などが持つ「用の美」を重視するようになります。この考えを広めるため、雑誌『工藝』を創刊し、民藝の理念を多くの人々に伝えました。
バーナード・リーチとの交流と西洋への影響
イギリスの陶芸家バーナード・リーチと深い友情を育み、リーチは我孫子で作陶活動を行いました。リーチの東洋の陶芸技術に対する尊敬と、柳の民藝思想が融合し、民藝運動は日本のみならず西洋にも影響を与えました。リーチとの交流を通じて、民藝の価値が日本国外にも広まりました。
日本民藝館の設立
1936年、東京駒場に「日本民藝館」を創設し、民藝品を収集・展示する活動を始めました。民藝館は、全国の工芸品の展示、保存、調査を通じて、民藝思想を広める役割を果たしました。日本民藝館は現在も運営されており、柳のコレクションやその思想を体感できる場所として知られています。
柳宗悦の民藝思想
柳宗悦の民藝思想は、以下の理念に基づいています。
用の美
生活の中で使われることで初めて美が発揮されるという「用の美」を重視しました。
無名性
無名の職人が作る日用品にこそ、純粋な美が宿ると考え、著名な作家ではない職人たちの作品を称賛しました。
地域性
それぞれの地域に根ざした伝統技術や材料が生かされた工芸品の価値を高く評価し、各地の工芸を尊重しました。
(2021年10月)「民藝」とは何か、そしてこれからどうあるべきか。「柳宗悦没後60年記念展『民藝の100年』」が東京国立近代美術館で開幕